妙法寺について

妙法寺の歴史

日昭聖人像

日昭聖人は日蓮宗を開かれた日蓮聖人と若き頃、
仏教の総合大学であった京都の比叡山で
共に仏教を学ぶ学友であり、
その後日蓮聖人の最初の弟子となりました。

日蓮聖人最初の弟子、日昭聖人

日昭聖人は、日蓮聖人が61歳にご入滅された後、40年以上教団を守り続け日蓮宗の基礎を作られました。当時としてはご長命の103歳まで生きられたと伝えられ、元享3年(1323年)にご入滅されました。

鎌倉幕府を守った風間公

風間公は、越後国(新潟県)の有力な豪族で、現在の上越市安塚に史跡が残る直峰城の城主でした。風間公は鎌倉幕府の番勤(警備)を勤めるため名瀬の地に広大な屋敷を有し、尽力しました。

風間公と日昭聖人の出会い

風間公は日昭聖人と鎌倉で出会い、法華経信仰に帰依しました。徳治元年(1306年)日蓮聖人が御入滅25年後、風間公が日昭聖人のために自らの敷地内に寺院を建立し、寄進されたのが妙法寺の始まりです。

宗門史跡認定書

当山は、日蓮聖人の一番弟子、日昭聖人が住まわれ、
布教された唯一の古刹であることから、平成9年に日蓮宗の宗門史跡に認定されました。

妙法寺の寺宝

曼荼羅本尊

「伝法本尊」

日蓮聖人が弘安3年に日昭聖人のために書かれたお曼荼羅本尊は、12枚もの紙を繋ぎ合わせて書かれており、縦2メートル、横1メートルにも及び、日蓮聖人が書かれた中でも最大級のものになります。授与書きには「釋子日昭伝之」(お釈迦様の弟子である日昭聖人にこの曼荼羅本尊を伝えます)と記されていることから「伝法本尊」と呼ばれております。この「伝法本尊」を樹齢500年の楠木に彫刻したのが妙法寺のご本尊です。

日蓮聖人像

日蓮宗の宗祖

室町時代、第七世日恵聖人の時代に造立され「横浜市有形文化財」として指定されています。内から出る気迫がみなぎり、迫真の玉眼に表れる存在感は百の説法に勝る迫力があります。江戸時代には、徳川家より外護を受け、座像を奉安する御厨子が贈られました。後に日蓮宗準宗宝の第1号として認定され、現在まで伝えられおります。江戸時代の文献には多くの参拝者で賑わったと記されていることから、人々の信仰を集めていたことが伺えます。

毘沙門天像

南北朝時代に造立された勝運の神様

四天王の中では多聞天と言われ、日本では七福神の一人でもある毘沙門天。古来より「武神・軍神」として数々の戦国武将に守護神とされ信仰を集めました。憤怒の形相で甲冑をまとい、左に宝塔、右に宝棒を持ち邪鬼を踏みつける姿は、力強さに溢れております。

大黒天像

福徳開運の神様

江戸時代半ば、宝永大噴火と呼ばれる富士山の噴火が起きた翌年宝永5年に造立され、古くから妙法寺に伝わる大黒天像。人々の五穀豊穣の信仰を集め、大切に受け継がれてきました。寺務所にお祀りし、参拝の皆様をお迎えしております。

鬼子母神像

安産・子育の神様

人の子を食らう鬼からお釈迦様の教化により改心し、子育て・安産の守護神となり、人々に信仰されてきました。日蓮宗では、法華経の代表的な守護神でもあります。右手に持つザクロは種を多く抱えることから子孫繁栄の象徴とされています。

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